SPECIAL EDITION FOR ENGINEER

第4回 成長する知能 :ITエンジニアに今すぐできること

特集: AI人工知能が変える未来

株式会社AIWIL システム開発事業部

第4回 成長する知能

知能の成長

あなたが考える知能の形

 私たちがAI人工知能を創造する時
1 知能の形態が、人と同じである必要はあるのでしょうか?
1 そもそも人の知能の構造は、最も優れた形態なのでしょうか?
1 人の知能は、なぜそれを知能と呼べるのでしょうか?

 AIに興味を持つあなたなら、きっとこのような疑問を持たれたことがあるでしょう。
今回は、この問いに対する「AIWILの考え」をお話します。

知能の形態に注目する

知能の形態

 私たちが創造する人工知能はどのような形態になるのか。その理想的な形態は、ごく限られたものになるのか。この問いに明瞭に答えるためには、エンジニアが「知能の成長と限界」について様々な角度から考察を行っていくことが重要です。

 AIWILは断言します。”人工知能を創造する”ということは「成長する知能を創造する」ことです。

 そうでなければ、それは既存のコンピュータです。知能ではなく処理速度や取扱データ量を拡大しただけの高性能なコンピュータに過ぎません。もちろんこれからも高性能なコンピュータは人類にとって計り知れない恩恵をもたらし続ける非常に重要なツールです。しかし、それは「知能」ではありません。

 前回の第3回「AI人工知能の構造と制御ではAIと呼べるシステムの条件についてAIWILが考える定義をお話しました。AIが人類にとって有益なものとなり、また脅威とならないようにするための留意点についても触れています。人工知能を創造していくエンジニアにとって、AIのあるべき方向性を常に意識して、自らの考えを明確に規定していくことがとても大切だと考えるからです。

 今回の特集記事では「記憶と知能の関係」、「知能が形成されていく姿」について考えていきます。あわせて人類の知能の形態が、そもそも最も優れていると言えるのか、人はどのように成長しているのか、という点についても考えてみたいと思います。
この特集が、AIの在るべき姿を自らの仮説で構築していきたいという思いに溢れるITエンジニア達にとって、エキサイティングでオリジナリティ溢れる創造のための刺激的な機会になることを心より願っています。

記憶は知能か機能か

春はあけぼの

春はあけぼの

 このような話を聞くことがあります-私たち人類は脳の能力のほとんどをまだ充分活用していないと。これは本当のことなのでしょうか。多少は自己愛が過ぎる人類ならではの希望的観測かもしれません。記憶について考えてみましょう。

 昔々まだ中学生の頃、清少納言の枕草子を宿題で暗唱させられたことがあります。「春はあけぼの」で始まる古典ですが、恥ずかしながら卒業後に一度も読み直した記憶がありません。それから何十年かが経過した今日の午後、知人との会話がきっかけで試しに諳んじてみようという機会が訪れました。先に結果をお話しすれば、ほとんどの文章を諳んじることが出来たのです。
これは、厳しかった恩師のおかげなのでしょうか。それとも私が、意外にも天才的な人物で教科書の文字を映像のように全て覚えていたのでしょうか?しかしそれほどの記憶力があるならば、授業中に隠れて食べた早弁で汚してしまったそのページの染みについては、その色も形も全く思い出すことが出来ないのはなぜでしょうか。

 よく仕事の休憩中に、比較的高いビルの部屋の窓から東京の風景を眺めます。毎日同じ場所に、同じマンションや同じ高層ビルが見えています。眼下の道路には「いつも通りの」車が流れています。どこに視線を移しても、以前から見知っている同じ景色のように見えます。これだけの風景をよく細部まで記憶できるものだと人の記憶力の仕組みに感心します。やはり人類の脳の力は未知数なのかもしれないと思うこともあります。

 しかしこれも本当でしょうか。少し自分の記憶力を疑ってみましょう。この広大な風景の中から、ウルトラシリーズのある日の物語のように夜の間にビルがもしひとつだけ消えたとしたら。。私はすぐに気付くのでしょうか。向かいのビルの最上階の窓に立つ人影が変わった時、それを見分けられるでしょうか。私達はどこまでその細部を正確に記憶できていたのでしょうか。

 もしかしたら、人間には風景の細部まで記憶することはほとんど出来ず、大雑把に覚えたイメージ画像を、現在目の前に見えている実際の対象に重ねることで「昨日も見た窓ガラス」と思い込んでいるのではないでしょうか。もし地球侵略をはかる異星人によって、少しずつビルがすり替わっているとしたら。。。

薔薇って書ける?

薔薇って書ける

「薔薇」という字は読めるけど書けないというような経験が誰にでもあるはずです。よく考えると不思議な気がします。理由としては「漢字の大雑把なイメージ」を記憶しているだけで、一画一画の全ては記憶出来ていない可能性があります。知っているけど思い出せない、というカッコいい理由ではなく実は最初から記憶出来ていないはずです。

 これこそが「人間の知能の姿」の一面を示しているとAIWILは考えます。

 薔薇という字を書けないけれど読めるようになる仕組みを、成長する児童の例で考えましょう。まず初めに「花の画像」がバラという「音」に結び付けられます。次の反復学習段階で「バラという音」が幼児にも覚えやすいバラという「カタカナ」と結び付けられていきます。そして成長の過程で「薔薇」という漢字のだいたいのイメージが「花の画像・音・カタカナ」で既に構築されていた「定番のセットメニュー」に結び付けられていきます。
その結果、漢字のおおよその印象を見ただけで「バラ」という言葉が音を伴って思い出されるようになります。おそらくここで漢字のどこかをいたずらで変えてみても、「バラ」という言葉が最初に浮かんでくるでしょう。それは不注意でいたずらに気付かなかったのではなく「おおよそでしか記憶していない漢字のイメージ」と脳内セットメニューが結び付いてしまっているからです。
おおよその形で記憶した漢字の印象」+「バラという単純な音」+「花の画像」が脳内で連結されているために「薔薇」という文字に似た印象の漢字を見れば、すぐにバラだと思うはずです。

 ここに知能の秘密があります。知能であるための条件に、決して精密な記憶力は必要ないのです。繰り返し反復して受けた刺激や、自身にとって重要な強い刺激により密接に関連付けられる「個別の記憶」同士が作り出す「脳内セットメニュー」こそ「一連の思考のモト」なのです。
たとえ完全な記憶が引き出せても、それがバラバラに存在しているだけでは知能ではありません。記憶だけなら、懐かしいレコードやセピア色の写真と変わりないのです。

ノード

 このようにたとえ情報量が少ない不正確な「脳内セットメニュー」であっても、人類の日常生活程度を豊かにすることは充分に出来ます。不都合も、そう多くは起きないでしょう。楽しい社会生活を行う上で充分なものでしょう。
もちろん、正確な計算やシビアな判断などが求められるような場合は、人々は特に集中して細部の記憶を高める努力を日常行っているはずです。その時、私たちはどのような努力をしているでしょうか?
おそらくほとんどの人は、「反復学習」を課しているはずです。これこそが脳内の「おすすめセットメニューの結びつき」を強めていくために、”繰り返される刺激”なのです。

 繰り返される刺激により入力情報に対する特定の思考ルート(おすすめセットメニュー)が、その優先度をあげていく。そのことで結論へ到達する速度と精度が増していく。数式の関係性が固定化されていけばテストの正答率が高まる。判例と適用法が最短距離で結び付けられていけば弁護士試験に合格し法廷でも戦えるようになる。非常に単純に言いきってしまうならば、これが知能形成の姿です。

セットメニューが思考を作る

記憶と連想

記憶と連想

 今日の午後、確かに私は「春はあけぼの」を暗唱することが出来ました。しかし同じ私が、同じ頃に出された英作文の暗唱の宿題をまったく思い出すことが出来ません。その理由は、おそらく毎日運用している日本語とはちがって、日常使用していない英単語同士の関連付けは私の「脳内反応のセットニュー(思考ルート)」を「定番のおすすめメニュー」まで特化するには希薄な経験に過ぎなかったことが原因と想像できます。反応としての刺激の程度が少なすぎたのです。

 「春はあけぼの やうやう白くなりゆく山際 少し明かりて紫だちたる雲の。。」と思い出せた理由は次のように考えられます。

・「あけぼの」という親しみ易い言葉と「やうやう」という新鮮な表現が強い印象で結びついた結果、今も関連して連想出来る。
・「やうやう」という珍しい音感が「白くなりゆく」という表現とも、強い結びつきを生んで固着していた。
・「白い」山際の稜線と「紫色」の雲がたなびく対比が絵画的印象で強く残ったことで、画像として紫立ちたる雲が引出された。

 つまり私が文章全てを「映写したかのように記憶できた」のではなく、個別の用語同士が強い連想セットで結び付けられた結果、今でも関連性をもって次々と引き出されてきたものと想像できます。
知能に必要なのは「完全なる記憶力」ではなく「要素と要素を結びつける反応の力=連想のルート」なのです。そしてこれが「論法の力」を生み出します。

連想ルート

「AならばB」「BならばC」という個別のセットがそれぞれ独立して固着すれば、必然的に「AならばC(A→B→C)」という類推の思考ルートが構築されます。個々の単純記憶同士が、反復や強烈な刺激によって常に関連性をもって認識される反応が強まっていけば、その連想ルートの優先度が上がり固着していく。
一定の結びつきが特化されていくことで、関連する連想速度も速まっていく。結果として、強大な一連の思考能力となっていく。それが知能の姿なのです。

 このことからもどれだけ高速処理が出来ても、固定されたプログラムに従って動く既存のコンピュータは(人類がAIのモデルとなるような条件の場合)人工知能ではなく「のようなもの」に過ぎないのです。

人類は反応する存在

シナップス反応

 AIWILでは、知能に基づく行動とは「与えられた刺激に対する連続反応がたどり着いた結果である」と考えています。

 この論点を深めたいエンジニアは、ニューロやシナップスなどの概要だけではなく、ぜひ一度「進化論が含んでいる秘密」についても自分なりの考察を加えてみてください。
今回はさらに、非常に重要なヒントをもうひとつお話ししましょう。それは「無条件反射・条件反射」そして「自然淘汰・適者生存」という言葉を合わせて考えていくことです。賢明なエンジニア諸氏ならば、その秘密に必ずたどり着くことが出来るであろう真実だということです。
これこそが「AIWILのAI理論のコア」にも触れるものです。人工知能の中で「繰り返される反応」と「方向性を持った制御」に関わる重要な考え方になるはずです。私たちの知見不足でなければ、いまだこの論点で語られているものを見たことはありません。

このヒントこそが、AIWILからエンジニアへのささやかな贈り物です。あなたなりの考えをいつかお聞かせください。

 私達人類は「反応する存在」です。人類をモデルとして人工知能を創造するのなら、人類の脅威とならないような一定の枠組みの中でそれを制御しながらも、偶発的な刺激に対して「ある性向をともなって現れる」反応と「その反応の結果に対する取捨選択的な好悪」という仕組みをもって繰り返し累積されることによって、変化し成長していく機能でなければなりません。

 ここでもっとも重要になるのは、「偶発的」な刺激に対して「ある性向」をともなって反応を繰り返す特徴です。人工知能の開発を考えるITエンジニア達には、ぜひこのキーワ-ドについて充分に考えてみていただきたいと思っています。

反応する存在

 「知能」という言葉は、既にこのことを示唆しています。「能く知る」とは雑学的暗記の力ではなく有益な思考ルートを知覚していくこと。つまり自らの中に構築されていく論理ネットワークの中から有益な結果を得ることが出来る特定ルートを知っていくことです。それは、思考の確かさを成長させていく能力です。

 記憶の高性能化は外部記憶装置で実現してもいい。たとえばノートや辞書を使う人類のように。しかし、強力で正確な記憶力よりは「有益な関連付けのルートを運用する力」の方がはるかに重要です。
「人類とまったく同じ」であることにこだわる必要はありません。AIを有益なパートナーとするためには、むしろあらかじめ予見できる危険性の排除、人類より優れたものになるべき性能の積極的な付与、予測不能な偶発性を排除する安定的な反応「性向」などを、”我々創造主が持つ権限”として組み込んでいくべきなのです。

2つの記憶

ある種の記憶は知能そのもの

知能と記憶

 ここまで考えてくれば、やはり人の記憶力など、実は風景写真1枚が持つ情報量にも劣るものかもしれません。光がミクロのレベルで写真に刻んでいく記憶力こそ相当なものでしょう。
一方で人間は、知っているはずの風景を見ているときでも、記憶出来ていたのは細部を割愛した主要な情報だけであり、毎回目の前に展開される実風景にそれを重ねていることで「この風景を細部まで記憶していた」ように錯覚しているのではないかと考える時があります。
似たような経験をあげれば、たとえば筆記試験では解答を書けないけれどもマークシートであれば相当程度正解できるといったことなどもそうでしょう。

 それでは人工知能にも、正確な記憶力などは不要なのでしょうか。

 これについては、2つに分けて考えなければなりません。「ある種の記憶は知能そのもの」だからです。それ以外のほとんどの記憶は「知能以外の外部記憶装置」に置かれていても充分です。それはなぜなのか。AIWILでは次のように考えます。

 知能そのものになるべき記憶とは「連想、類推の材料となる記憶」です。この記憶は一つの論理を一つの線(ルート)として考えた場合には、両方の端(ノード)となるものです。「AならばB」という場合のAとBがこの種類のノード(記憶)に該当します。
この思考ルートの両端であるノードを構成する記憶は、脳の構造でたとえればシナップスボタンに近い位置づけになるかもしれません。

 このAとBが、知能の一部を構成する重要な記憶です。多くの場合、それらは抽象化・一般化された記憶のはずです。記号言語によって抽象化されたものであるほど、知能のモトとなる「類推・推論」の主要材料に相応しいものになるはずです。

知能は本を読む

知能のメモ

 知能を構成するためにそれほど重要ではないその他の情報(思考に対して投入されていく一般情報)の場合、無限に領域を拡張することも可能な「外部記憶装置」に置く方が、より適切になります。
それらは「知能」からいつでもアクセスできる場所にあれば充分でしょう。理論上は記憶容量を無限にすることができるため、より有効な情報群として活用できるはずです。
その代表例としては直接接続された外部記憶装置だけではなく、インターネットの世界やクラウドの世界もあげられます。これらは「知能の外」にあるものとして扱うべきです。

 ただし当初は外部に置かれていた情報記憶であったとしても、自らに働きかける刺激として繰り返し出現してくるような頻出情報は、一定のルールで情報の重み付けがされる機能を通じて優先視されるようになり、推論の一方の端を構成する主要なノードとして取り扱われ始める必要があります。
そのような状態になった場合は、知能を構成する要素(ノード端である記憶)として取り込まれ、新しいルートが構築されていくべきでしょう。
この反応ルート(思考のモト)の生成とノード化する記憶情報の選択という制御こそが、人工知能のコアになるはずです。その手法については、ITエンジニア諸氏とAIWILの研究会等でいつかお話できる機会があればと考えています。

知能の形態は人が理想か

人の知能

 そもそも、人の知能の構造が最も優れた形態と言えるのでしょうか。このことについてはまったく自由に、あらゆる可能性を追求して考えていく価値があります。ただしその時は、私たちが勘違いしがちな人類特有の誘惑に打ち勝つ必要があるのです。それは「人は不完全な存在であるにも関わらず、自らの能力や程度を過信してしまう傾向がある」ということです。

 最後になりますが、この問いに対する答えがあるとすれば「人から得られる知能生成のヒント」を活用しAI人工知能を開発していくならば、少なくとも理論上は明瞭な方向性が構築されやすいということだけでしょう。なぜなら自らについては知りやすく、人類の知性が抱えるたくさんの弱点についてもまた理解が及びやすいからです。
その時に留意しな ければならないのは、不完全な人類が既に持っている低次元の暴走性向の原因(不具合)まで移植を行わないことです。

 ここまで読んでこられた賢明なエンジニア諸氏は、既に気付いたはずです。知能を生成する反応という現象は「一定の生物の中に、たまたま発現した現象のひとつの形に過ぎない」ということです。私たち人類の形態は偶然の産物です。自然淘汰と適者生存の観点で考えるなら、今生き残っている人類は「強力な生存の方向性を偶然持った存在」ということになります。
私たちは、進化論から得られる本当に重要な示唆と私たちの無条件反射の活動の意味の双方を、よくよく注視する必要があります。そのことで、AI制御のヒントを得ることが出来るはずです。そうすれば、人類はこの脅威を乗り越えることが出来るとAIWILは信じています。

 なぜそう言えるのか。次回の第5回「人工知能はクセがすごい」でお話しすることが出来ればと考えています。

 最後に人工知能開発の研究過程から、人類の弱点に関するヒントを得ることで私たちの未来はより豊かになり恒久の平和を実現できる可能性さえあるのではないかとAIWILは信じています。それは人類が幸運にも原初より根源に持っている「反応の方向性」の力であることに気付くはずだからです。

【株式会社AIWIL システム開発事業部】

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